Jリーグの黎明期を支えた「オリジナル10」。日本のサッカーファンなら一度は耳にしたことがある言葉でしょう。1993年のJリーグ開幕時に参加した10のクラブは、まさにリーグの顔であり、名門としての地位を確立してきました。し
かし、30年以上の時を経てJリーグの競争は激化し、オリジナル10といえども安泰ではありません。本記事では、どのオリジナル10クラブがJ2降格の涙をのんだのか、そして今もなおJ1の座を守り続けているクラブはどこなのか、その栄光と挫折の歴史を詳しく、そして分かりやすく解説していきます。Jリーグの厳しい世界の縮図ともいえる、オリジナル10とJ2の物語に迫ります。
オリジナル10のJ2降格経験とは?
Jリーグの歴史を語る上で欠かせない「オリジナル10」。彼らがJ2へ降格するという事実は、リーグの競争が激化した象徴的な出来事でした。ここでは、まずオリジナル10とは何か、そしてJリーグの降格制度がどのように始まったのかを振り返り、どのクラブがJ2を経験したのかを見ていきましょう。
そもそも「オリジナル10」とは?
「オリジナル10(オリジナルテン)」とは、1993年のJリーグ開幕時に加盟していた10のクラブを指す通称です。 これらのクラブは、日本のプロサッカーリーグの礎を築いた存在として、特別な敬意を込めて呼ばれています。
- 鹿島アントラーズ
- ジェフユナイテッド市原(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)
- 浦和レッドダイヤモンズ
- ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)
- 横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)
- 横浜フリューゲルス(1999年に横浜マリノスと合併し消滅)
- 清水エスパルス
- 名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
- ガンバ大阪
- サンフレッチェ広島
これらのクラブの多くは、Jリーグの前身である日本サッカーリーグ(JSL)に所属していた実業団チームが母体となっていますが、清水エスパルスは特定の企業を持たない市民クラブとして参加したのが特徴です。 オリジナル10は、まさにJリーグの歴史そのものと言えるでしょう。
Jリーグの降格制度の歴史
Jリーグ開幕当初は、Jリーグと下部リーグであるジャパンフットボールリーグ(JFL)との間での入れ替えのみで、Jリーグ内での降格はありませんでした。しかし、リーグのさらなる活性化と競争力の向上を目指し、1999年からJリーグがJ1とJ2の2部制に移行。 これに伴い、J1の下位チームがJ2へ降格する制度が導入されました。
この制度が始まったことで、成績不振は即ち下部リーグへの降格を意味することになり、各クラブはシーズンを通して厳しい戦いを強いられることになったのです。「オリジナル10だから降格しない」といった特権は存在せず、すべてのクラブが平等な条件で戦うことになりました。 この降格制度の導入が、後に多くのドラマを生み出すことになります。
オリジナル10でJ2降格を経験したクラブ一覧
では、実際にJ2降格を経験したオリジナル10のクラブはどこなのでしょうか。現在までに、消滅した横浜フリューゲルスを除く9クラブのうち、実に7クラブがJ2降格を経験しています。
クラブ名 | 降格経験 | J2在籍年度 |
---|---|---|
浦和レッズ | あり | 2000 |
ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ) | あり | 2006, 2007, 2009-現在 |
サンフレッチェ広島 | あり | 2003, 2008 |
ジェフユナイテッド市原・千葉 | あり | 2010-現在 |
ガンバ大阪 | あり | 2013 |
清水エスパルス | あり | 2016, 2023-現在 |
名古屋グランパス | あり | 2017 |
この表からも分かる通り、かつての名門クラブが次々とJ2の舞台を経験しています。Jリーグがいかに厳しい競争環境にあるかがうかがえます。
J2降格を経験したオリジナル10のクラブたち
オリジナル10のJ2降格は、多くのサッカーファンに衝撃を与えました。ここでは、J2の舞台を経験した7つのクラブが、どのような経緯で降格し、その後どうなったのか、それぞれのクラブの物語を紐解いていきます。
ジェフユナイテッド市原・千葉
2005年、2006年とJリーグカップを連覇するなど、イビチャ・オシム監督の下で黄金期を築いたジェフユナイテッド市原・千葉。 しかし、2006年にオシム監督が日本代表監督に就任すると、チームは徐々に失速。 そして2009年、クラブ史上初のJ2降格の屈辱を味わいました。
当初は1年でのJ1復帰が期待されましたが、昇格プレーオフでの敗退が続くなど、J2の厳しい戦いから抜け出せずにいます。 2010年から現在に至るまでJ2での戦いが続いており、「J2の沼」とも表現される長期低迷に陥っています。 それでも、熱心なサポーターに支えられ、悲願のJ1復帰を目指し続けています。
ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)
Jリーグ開幕当初、三浦知良選手やラモス瑠偉選手らを擁し、圧倒的な強さで2連覇を達成したヴェルディ川崎。 まさに「初代王者」として一時代を築きました。しかし、親会社の経営問題やホームタウンの移転などを経て、かつての輝きは失われていきます。
そして2005年、ついに初のJ2降格が決定。 2008年に一度はJ1に復帰するものの、わずか1年で再びJ2へ降格してしまいました。 その後、2009年には親会社である日本テレビが経営から撤退し、クラブは存続の危機にも立たされました。 長い低迷期を経て、2024シーズンに16年ぶりのJ1復帰を果たし、名門復活への道を歩み始めています。
浦和レッズ
現在ではJリーグ屈指の人気と実力を誇る浦和レッズですが、意外にもJ2降格を経験した最初のオリジナル10クラブの一つです。Jリーグが2部制となった1999年にJ2へ降格しました。
しかし、浦和レッズの物語はここからが違いました。熱狂的なサポーターの後押しを受け、わずか1年でJ1への復帰を果たします。 この経験がクラブとサポーターの絆をより一層強いものにし、その後の黄金期へと繋がっていきました。2006年には悲願のJ1リーグ初優勝を成し遂げ、翌年にはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)も制覇。J2降格という挫折を乗り越え、アジアを代表するビッグクラブへと成長を遂げたのです。
サンフレッチェ広島
サンフレッチェ広島は、オリジナル10の中で2度のJ2降格と2度のJ1昇格を経験しているクラブです。 1度目は2002年、監督交代の混乱などが響き、まさかのJ2降格となりました。 しかし、1年でJ1の舞台へと返り咲きます。
2度目の降格は2007年。 若き才能を多く擁しながらも、入れ替え戦で敗れ、再びJ2での戦いを強いられました。 この時も主力選手の多くが残留し、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の下で攻撃的なサッカースタイルを確立。 圧倒的な強さでJ2を制し、1年でのJ1復帰を果たしました。この経験をバネに、2012年、2013年、2015年とJ1リーグを制覇し、Jリーグ史に残る強豪クラブとしての地位を確立しました。
名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
ドラガン・ストイコビッチ氏を擁してJリーグを沸かせ、2010年にはリーグ初優勝を成し遂げた名古屋グランパス。 オリジナル10の中でも安定した強さを誇っていましたが、2016年にクラブ史上初のJ2降格という衝撃的な出来事が起こります。
指導経験のない小倉隆史氏をGM兼任監督に据えるなど、チームの迷走が指摘されました。 しかし、降格が決まった後、クラブは大きな改革に着手。風間八宏監督を招聘し、1年でのJ1復帰を目指しました。 多くの主力が退団する中、昇格プレーオフを勝ち抜き、見事に1年でのJ1復帰を達成。 降格の悔しさを知る数少ない選手たちが、今のチームを支えています。
ガンバ大阪
2005年にJ1リーグ初優勝、2008年にはACL制覇と、輝かしい実績を誇るガンバ大阪も、J2降格の苦汁を味わっています。 2011年まで長きにわたりチームを率いた西野朗監督が退任すると、チームはバランスを崩し、2012年にまさかのJ2降格となりました。
しかし、名門の底力はここからでした。遠藤保仁選手をはじめとする主力の多くが残留。 翌2013年にJ2を圧倒的な強さで優勝し、1年でのJ1復帰を果たすと、その勢いは止まりませんでした。J1復帰初年度の2014年、J1リーグ、Jリーグカップ、天皇杯の国内三冠を達成するという、Jリーグ史上初の快挙を成し遂げたのです。 降格が、クラブをさらなる高みへと導いた好例と言えるでしょう。
清水エスパルス
「サッカー王国」静岡を代表するクラブであり、オリジナル10唯一の市民クラブとしてJリーグを戦ってきた清水エスパルス。 長らくJ1の座を守り続けてきましたが、2015年にクラブ史上初のJ2降格が決定しました。
1年でのJ1復帰を果たしたものの、その後もJ1下位に低迷するシーズンが続き、2022年に再びJ2へ降格。 クラブ創設30周年の節目の年での降格は、サポーターに大きな衝撃を与えました。 現在もJ2での戦いが続いており、サッカー王国復権に向けて、厳しい道のりを歩んでいます。
なぜ名門クラブはJ2へ降格したのか?
オリジナル10という輝かしい看板を背負いながら、なぜ多くのクラブがJ2降格という結果に至ったのでしょうか。その背景には、いくつかの共通した要因が見え隠れします。ここでは、名門クラブが陥りがちな3つのポイントについて考察します。
世代交代の失敗
多くのクラブで降格の引き金となったのが、世代交代の失敗です。黄金期を支えたベテラン選手たちの力が衰え始め、彼らに代わる若手が順調に育たなかった場合、チーム力は一気に低下します。例えば、かつての東京ヴェルディは、Jリーグ初期を彩ったスター選手たちがチームを去った後、新たな柱となる選手をなかなか見出せずに苦しみました。
ガンバ大阪も2012年の降格時には、長年チームを支えてきた選手の高齢化が指摘されていました。 栄光の時代が長ければ長いほど、その時代を築いた選手への依存度が高まり、世代交代のタイミングを見誤ってしまう危険性があるのかもしれません。
監督人事と戦術の迷走
サッカーにおいて監督が果たす役割は非常に大きく、その手腕がチームの成績を大きく左右します。降格した多くのクラブでは、監督の頻繁な交代や、戦術がチームに浸透しないといった問題が見られました。
2016年に降格した名古屋グランパスは、指導者経験のない小倉隆史氏を監督に任命し、シーズン途中で解任するなど、監督人事で迷走しました。 また、2002年にサンフレッチェ広島が降格した際も、新監督が自身の戦術に合わないという理由で主力を放出し、チームが混乱に陥ったとされています。
クラブとしての一貫した強化方針がなく、目先の成績に一喜一憂して監督を交代させていては、安定したチーム作りは望めません。戦術が定まらず、選手たちがピッチ上で何をすべきか迷ってしまう状況は、降格への坂道を転がり落ちる典型的なパターンと言えるでしょう。
経営規模と資金力の変化
Jリーグが発展するにつれて、各クラブの経営規模は大きくなり、資金力がチームの強さに直結する側面が強まっています。親会社の経営状況の変化は、クラブの運命を大きく左右します。
最も象徴的な例が、東京ヴェルディです。親会社であった日本テレビの経営不振、そして経営からの撤退は、クラブの資金力を著しく低下させ、長期的な低迷の大きな原因となりました。 横浜フリューゲルスが消滅したのも、親会社の経営悪化が直接的な原因でした。
一方で、他のクラブが大型補強を行う中で、相対的に戦力が見劣りするようになってしまうケースもあります。かつては潤沢な資金を誇っていたクラブでも、リーグ全体の資金レベルが上がれば、以前と同じようなアドバンテージを保つことは難しくなります。安定した経営基盤を維持し、時代の変化に対応していくことが、J1に生き残るための重要な要素となっているのです。
J2降格を経験していないオリジナル10のクラブ
これまで多くのオリジナル10クラブがJ2降格を経験する中、その厳しい競争を勝ち抜き、一度もJ1の座から落ちたことのないクラブが存在します。彼らはなぜ、常にトップカテゴリーに君臨し続けることができるのでしょうか。その強さの秘密に迫ります。
鹿島アントラーズ
Jリーグ創設以来、唯一J2への降格経験がないのが鹿島アントラーズです。 リーグ優勝8回をはじめ、数々のタイトルを獲得してきた常勝軍団であり、その安定感は群を抜いています。 鹿島の強さの根源には、元ブラジル代表のジーコ氏が植え付けた「勝利への執着心」や「献身性」といった、いわゆる「ジーコ・スピリット」がクラブ全体に深く浸透していることが挙げられます。
この哲学は、監督や選手が変わっても揺らぐことなく受け継がれており、クラブの文化として定着しています。常に勝利を目指す姿勢が、どんな状況でもチームを崩壊させず、安定した成績に繋がっているのです。これまで二桁順位になったのが2012年の11位のみという驚異的な安定ぶりは、まさにこのクラブ文化の賜物と言えるでしょう。
横浜F・マリノス
鹿島アントラーズとともに、一度もJ2へ降格したことのないオリジナル10が横浜F・マリノスです。 1999年に同じ横浜をホームタウンとしていた横浜フリューゲルスと合併し、現在のクラブ名となりました。
リーグ優勝5回を誇る名門であり、常にJ1の上位争いを演じてきました。 伝統的に攻撃的なサッカースタイルを志向し、多くの観客を魅了してきました。2018年シーズンには最終節まで残留が確定しない苦しいシーズンを経験するなど、降格の危機がなかったわけではありませんが、土壇場で踏みとどまる勝負強さを見せてきました。
常にタイトルを意識し、高いレベルでの競争を続けてきたことが、J1の座を守り続ける原動力となっているのです。
横浜フリューゲルス
横浜フリューゲルスも、J2が創設される前に消滅したため、厳密にはJ2降格を経験していません。全日空と佐藤工業が共同で運営していましたが、1998年に佐藤工業が経営不振から撤退を表明。 全日空単独での運営も困難となり、横浜マリノスへの吸収合併という形で、その歴史に幕を下ろしました。
この合併発表は選手やサポーターに大きな衝撃を与えましたが、チームは最後の大会となった第78回天皇杯で奇跡的な快進撃を見せ、見事に優勝という最高の形で有終の美を飾りました。 フリューゲルスの消滅はJリーグにとって悲しい出来事でしたが、その魂はサポーターたちによって受け継がれ、市民クラブ「横浜FC」の設立へと繋がりました。
J2降格がクラブにもたらすもの
J2への降格は、クラブにとって大きな痛手であることは間違いありません。しかし、それは必ずしもネガティブな側面ばかりではありません。降格という厳しい経験が、クラブをより強く、たくましく成長させるきっかけとなることもあります。ここでは、J2降格がクラブにもたらす影響を多角的に見ていきましょう。
経営面での打撃
J2へ降格した際に最も深刻な影響を受けるのが経営面です。J1とJ2では、Jリーグから分配される放映権料などに大きな差があり、クラブの収入は大幅に減少します。また、注目度が低下することから、スポンサー収入の減少や、観客動員数の落ち込みにも繋がります。
これにより、クラブは高年俸の主力選手を維持することが難しくなり、戦力の流出は避けられません。2016年に降格した名古屋グランパスも、翌年には多くの主力選手がチームを去りました。 限られた予算の中でチームを再編成し、1年でJ1へ復帰するというミッションは、非常に困難なものです。この経営的な打撃をいかに最小限に食い止め、立て直しを図れるかが、クラブの将来を左右します。
サポーターとの絆の深化
一方で、J2降格はサポーターとの絆を深めるという側面も持っています。クラブが最も苦しい時期にこそ、サポーターの真価が問われます。J1の華やかな舞台からJ2の厳しい環境へと戦いの場が移っても、変わらずに応援し続けてくれるサポーターの存在は、選手たちにとって何よりの力になります。
浦和レッズが1年でJ1に復帰できた背景には、J2のスタジアムにも大挙して押し寄せた熱狂的なサポーターの存在がありました。苦しい時期を共に乗り越えた経験は、クラブとサポーターの間に「同志」ともいえるような強固な一体感を生み出します。この絆は、お金では買うことのできない、クラブにとっての大きな財産となるのです。
クラブ改革のきっかけ
「負けに不思議の負けなし」という言葉があるように、J2降格という結果には、必ず何かしらの原因が存在します。それは、チームの戦術的な問題かもしれませんし、クラブの経営体質や育成組織の問題かもしれません。降格という厳しい現実は、これまで見て見ぬふりをしてきたクラブの構造的な問題点と向き合う絶好の機会となります。
2012年に降格したガンバ大阪は、この経験をきっかけにクラブを見つめ直し、翌々年には国内三冠を達成するという偉業を成し遂げました。 サンフレッチェ広島も、2度の降格を乗り越える中で独自のサッカースタイルを確立し、黄金期を築きました。降格の悔しさをバネに、クラブ全体で抜本的な改革を断行できるかどうか。それが、降格を単なる失敗で終わらせるか、未来への糧とするかの分かれ道となるのです。
まとめ:オリジナル10とJ2の歴史が示す未来
この記事では、「オリジナル10」と「J2」をキーワードに、Jリーグの名門クラブたちが経験してきた栄光と挫折の歴史を紐解いてきました。Jリーグ発足から30年以上が経過し、もはや「オリジナル10」という看板だけでJ1に居続けられる時代ではないことは明らかです。
現存する9クラブのうち、実に7クラブがJ2降格を経験しているという事実は、Jリーグの競争の激しさを何よりも物語っています。 世代交代の失敗、監督人事の迷走、経営問題など、降格の理由は様々ですが、それはどのクラブにも起こりうるリスクです。
しかし、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、ガンバ大阪のように、降格を乗り越えてさらなる黄金期を築いたクラブも存在します。彼らは、降格という苦しい経験をクラブ改革のきっかけとし、サポーターとの絆を深め、より強い組織へと生まれ変わりました。
一方で、ジェフユナイテッド千葉や東京ヴェルディ(2023年まで)のように、長期にわたってJ2での戦いを強いられているクラブもあり、J2からJ1へ復帰することの難しさも浮き彫りになっています。
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