近年、世界のサッカー界で最も革新的であり、かつ見る者を魅了してやまない戦術があります。それが、ロベルト・デ・ゼルビ監督が操る「デゼルビ戦術」です。サッスオーロで注目を集め、プレミアリーグのブライトンでは三笘薫選手らの才能を爆発させて世界的な評価を確立しました。
現在はフランスの名門マルセイユで指揮を執る彼のスタイルは、単なるポゼッションサッカーではありません。最大の特徴は、自陣深くに相手をおびき寄せ、その背後に広がる広大なスペースを一気に突く「疑似カウンター」と呼ばれる攻撃手法にあります。ペップ・グアルディオラ監督さえも絶賛したこの戦術は、現代サッカーの常識を覆すアイデアに満ちています。
この記事では、デゼルビ戦術の仕組みや魅力、そしてリスクについて、初心者の方にもわかりやすく徹底的に解説していきます。
デゼルビ戦術の基本概念:「ボールを保持して相手を操る」

デゼルビ戦術を理解する上で、最初におさえておくべきなのは、彼らが「なぜボールを持つのか」という根本的な理由です。多くのチームにとってボール保持は攻撃の手段ですが、デゼルビにとっては「守備を崩すための罠」でもあります。
ボール保持(ポゼッション)への強いこだわり
デゼルビ監督のチームは、圧倒的なボール保持率を記録することが珍しくありません。しかし、それは相手陣内でパスを回し続けるだけのポゼッションとは異なります。彼らがボールを持つ最大の目的は、自分たちのリズムで試合をコントロールすることにあります。
ボールを失わなければ相手に攻撃されることはなく、自分たちが主導権を握り続けられるという考え方が根底にあります。そのため、ゴールキーパーを含めた後方の選手たちには、極めて高い足元の技術と、プレッシャーを受けても動じないメンタリティが求められます。「ボールを持つことが守備であり、最大の攻撃準備である」というのが、この戦術の第一歩です。
相手のプレスを「エサ」にする逆転の発想
通常のポゼッションサッカーでは、相手のプレスを回避しながら前進しようとします。しかし、デゼルビ戦術は逆の発想をします。相手がプレスに来てくれることを心待ちにしているのです。自陣の低い位置、時にはゴールラインギリギリの場所でパスを回すことで、相手選手に対して「ボールが奪えそうだ」という錯覚を与えます。
これを「食いつかせ」や「おびき寄せ」と呼びます。相手がボールを奪おうと前掛かりになって食いついてきた瞬間こそが、デゼルビ戦術のスイッチが入る合図です。プレスに来るということは、その選手の背後にスペースが生まれることを意味します。この「エサ」を撒く作業こそが、戦術の肝となります。
4-2-3-1フォーメーションの配置と役割
デゼルビ監督が好んで採用する基本フォーメーションは「4-2-3-1」です。しかし、試合が始まるとこの数字の並びはあまり意味をなさなくなります。ビルドアップ(攻撃の組み立て)の局面では、両サイドバックが高い位置を取ったり、逆に内側に入ったりと流動的に動きます。特に重要なのが「ダブルボランチ(2人の守備的ミッドフィルダー)」の存在です。
彼らはセンターバックの近くにポジションを取り、相手の守備ブロックの注目を集める役割を担います。また、トップ下の選手やウイングの選手も、状況に応じて中盤の底まで降りてくるなど、相手のマークを混乱させる配置を常に変化させ続けています。固定されたポジションにとらわれない柔軟性が、相手の守備を機能不全に陥らせるのです。
【デゼルビ戦術の基本哲学】
・ボールを持つことは、相手をコントロールすること。
・相手のプレスは恐怖の対象ではなく、チャンスの合図。
・ポジションは固定されず、相手の出方に応じて流動的に変化する。
疑似カウンターの正体!相手を引き込む「足裏コントロール」

「疑似カウンター」という言葉は、ボールを保持している状態(遅攻)から、まるでカウンターアタック(速攻)のようなスピードでゴールに迫ることから名付けられました。ここでは、その具体的なメカニズムを紐解いていきます。
センターバックとゴールキーパーのビルドアップ
攻撃の起点は、常にセンターバックとゴールキーパーです。デゼルビのチームにおいて、ゴールキーパーは「手を使えるフィールドプレイヤー」として扱われます。センターバックが大きく開き、その間にゴールキーパーが入ることで、数的優位(相手より人数が多い状態)を作り出します。
相手が2人のフォワードでプレスをかけてきても、こちらは3人でボールを回せるため、理論上はボールを奪われません。このエリアでゆったりとパスを交換し、相手がしびれを切らして猛烈なプレスをかけてくるまで、じっくりと待ち構えるのです。この忍耐強さが、爆発的な攻撃を生むための溜めとなります。
相手を止まらせる「足裏」でのボール静止
デゼルビ戦術の象徴的なプレーの一つに、「足の裏でボールを止めて静止する」という動作があります。通常、サッカーではボールを常に動かしておくことが良しとされますが、デゼルビの選手たちはあえてボールを完全に止めます。これには深い心理的な効果があります。
ボールが止まっていると、守備側の選手は「いつパスが出るのか」「ドリブルで来るのか」が読めず、不用意に飛び込めなくなります。また、ボール保持者が静止することで「さあ、取りに来い」という強烈なメッセージを相手に送ることになります。この「静と動」のコントラストが、守備側のリズムを狂わせ、一瞬の判断ミスを誘発するのです。足裏でのコントロールは、相手を挑発し、自分たちのテンポに引きずり込むための重要なテクニックです。
プレスに来た瞬間の縦パスとスイッチ
相手がついに我慢できずにプレスをかけてきた瞬間、デゼルビ戦術の真骨頂が発揮されます。相手が寄せてきたことで空いたスペースへ、鋭い縦パスを打ち込みます。このパスは「スイッチ」と呼ばれ、それまでのゆったりとしたパス回しから一転、一気にスピードアップします。
この縦パスは非常にリスクが高いものですが、成功すれば相手の中盤を一瞬で無力化できます。縦パスが入った瞬間、周りの選手たちも一斉に相手ゴール方向へ走り出します。まるでダムが決壊したかのような勢いで、数的不利になった相手守備陣に襲いかかるのです。この緩急の差こそが、疑似カウンターの破壊力の源です。
「レイオフ」を使った第三の動き(サードマン)
縦パスを受けた選手(多くはトップ下や降りてきたフォワード)は、前を向くのが難しい場合、無理にターンをしません。その代わりに、サポートに来た味方(ボランチなど)にワンタッチでボールを落とします。これを「レイオフ」と呼びます。ボールを落としてもらった選手は前向きの状態でプレーできるため、ピッチ全体を見渡してスルーパスを送ることができます。
この「縦パスを入れる人」→「落とす人」→「展開する人」という3人の連携を「サードマン(第三の動き)」と呼びます。デゼルビのチームはこの連携がオートマチックに行われるよう訓練されており、相手ディフェンダーが反応できないスピードで守備網を突破してしまいます。
メモ:足裏コントロールのメリット
ボールを足裏で止めると、相手をじらすだけでなく、自分自身のルックアップ(顔を上げて周りを見る)時間を確保できます。これにより、最も危険なスペースにいる味方を確実に見つけることができるのです。
戦術の心臓部となるダブルボランチの重要性

デゼルビ戦術において、最も過酷で、かつ知的な役割を求められるのが中盤の底に位置する2人のボランチです。彼らの出来が、チームの勝敗を左右すると言っても過言ではありません。
相手の守備ブロックの真ん中で受ける勇気
一般的なボランチは、相手の守備ブロックの外側や脇でボールを受けたがります。そこならプレッシャーが少なく安全だからです。しかし、デゼルビ監督のボランチは違います。彼らはあえて相手の守備ブロックのど真ん中、つまり四方を敵に囲まれた危険なエリアにポジションを取ります。
なぜなら、そこでボールを受けることができれば、相手の守備ラインを中央に凝縮させることができるからです。中央に敵を集めることで、結果的にサイドに広大なスペースが生まれます。常に360度から敵が来るプレッシャーの中でプレーするため、高い技術と、ミスを恐れない強い心臓が必要不可欠です。
2人の距離感とパス交換のテンポ
ダブルボランチの2人は、近すぎず遠すぎない絶妙な距離感を保ちます。相手のプレスが激しい時は近づいてパスコースを増やし、相手が引いている時は離れてピッチを広く使います。彼らのパス交換は非常にテンポが速く、相手に的を絞らせません。
また、センターバックからの縦パスを引き出すために、相手の背後に隠れたり、顔を出したりする駆け引きを繰り返します。「相手の視界から消えて、突然現れる」ような動き出しが求められます。彼らが中盤でフリーになれば、そこから決定的なスルーパスが供給され、一気にビッグチャンスへとつながります。
囮(おとり)となってスペースを作る動き
ボランチはボールに触るだけが仕事ではありません。時にはボールに触らず、囮(おとり)として機能することも重要です。例えば、ボランチがサイドに流れる動きを見せると、相手のミッドフィルダーもそれにつられて動きます。すると、中央にぽっかりとスペースが空きます。
そこにトップ下の選手やセンターバックが侵入してボールを運ぶのです。自分たちがボールを受けられない状況でも、味方のために道を開ける黒子的な役割もこなします。このように、デゼルビ戦術のボランチは「司令塔」でありながら「犠牲役」もこなす、非常にタスクの多いポジションなのです。
ウイングの破壊力とフィニッシュへの道筋

後方でのビルドアップで相手を中央におびき寄せた後、仕上げを託されるのがサイドに張ったウイングの選手たちです。ブライトン時代の三笘薫選手が象徴するように、ここは個の力が輝くステージです。
1対1(アイソレーション)を作り出す仕組み
デゼルビ戦術の目的の一つは、強力なウイングの選手を、相手サイドバックと1対1の状況にさせることです。これを「アイソレーション(孤立化)」と呼びます。中央でのパス回しによって相手守備陣全体を内側に寄せているため、サイドには広大なスペースが残されています。
ボールが中央から一気にサイドへ展開された時、ウイングの選手は十分な助走距離とスペースを持って、相手ディフェンダーと対峙できます。通常なら相手のカバーリングが来るところですが、中央での崩しによってカバー要因も釘付けにされているため、ウイングは純粋な1対1の勝負を仕掛けることができるのです。
三笘薫も輝いたサイドからの仕掛け
ブライトンで三笘薫選手が大ブレイクした背景には、この戦術的なお膳立てがありました。チーム全体で相手を中央に集め、三笘選手には「良い状態でボールを渡す」ことだけに集中する仕組みが出来上がっていたのです。ボールを受けたウイングには、縦への突破、中へのカットイン、そして味方とのワンツーなど、多彩な選択肢が与えられます。
デゼルビ監督はアタッキングサード(敵陣深く)でのプレーに関しては、選手の即興性やアイデアを尊重します。「そこまではチームで運ぶから、最後は君の才能で決めてくれ」という信頼関係が、アタッカーのポテンシャルを最大限に引き出します。
中央突破とサイド攻撃の使い分け
もちろん、サイド攻撃一辺倒ではありません。相手がサイドの1対1を警戒して広がれば、今度は手薄になった中央を突破します。トップ下の選手やストライカーが、センターバックとボランチの間(ライン間)でボールを受け、ダイレクトプレーでゴールに迫ります。
サイドと中央、どちらか一方を塞げばもう一方が空くという「二者択一」を相手に突きつけ続けるのが、この攻撃の恐ろしいところです。相手ディフェンダーにとっては、常に後手後手の対応を強いられることになり、精神的にも肉体的にも疲弊していきます。
相手ディフェンスラインの背後を狙う動き
ポゼッションに注目が集まりがちですが、ストライカーやウイングによる「裏への抜け出し」も重要な武器です。後方でボールを持っている時、相手のディフェンスラインは押し上げざるを得ません。その瞬間、最前線の選手は相手ディフェンダーの死角から背後のスペースへ走り込みます。そこに正確なロングボールが供給されれば、たった1本のパスでゴールキーパーと1対1の状況が生まれます。足元のパスワークを見せつけておいて、隙あらばロングボールで裏をかく。この両面性があるからこそ、相手はプレスに行くべきか下がるべきか迷い、結果としてデゼルビの術中にハマってしまうのです。
守備の特徴と高いラインに伴うリスク

魅力的で攻撃的なデゼルビ戦術ですが、当然ながらリスクも存在します。ここでは守備面の特徴と、構造上の弱点について解説します。
ボールを奪われた直後の即時奪回
デゼルビのチームは、ボールを奪われた瞬間に猛烈なプレスをかけ、すぐに取り返すことを目指します。これを「即時奪回」や「ゲーゲンプレス」と呼びます。敵陣深くでボールを失った場合、周りには多くの味方選手がいるため、囲い込んで奪い返すことが可能です。
もしそこで奪い返せれば、相手の守備陣形は崩れているため、二次攻撃の絶好のチャンスとなります。攻撃と守備がシームレスにつながっているのが現代サッカーの特徴ですが、デゼルビのチームも例外なく、切り替えの速さを極めて重要視しています。
人に強くつくマンツーマン気味の守備
守備のセット時(相手がボールを持って整っている時)には、相手選手一人ひとりに味方を張り付かせる「マンツーマン気味」の守備を行うことが多いです。ゾーン(地域)を守るのではなく、人(相手選手)を捕まえに行くスタイルです。これにより、相手に自由な時間を与えず、パスコースを塞いで窒息させることを狙います。
特に前線からのプレスは激しく、相手のビルドアップを破壊しにかかります。見ている側にとっては、ピッチ全体で1対1のバトルが繰り広げられるため、非常にエキサイティングな展開になります。
ビルドアップミスが失点に直結する危険性
デゼルビ戦術最大のリスクは、自陣深くでのビルドアップミスです。ゴール前で相手を引き込んでパスを回すため、もしそこでボールを奪われると、即座に失点する可能性が極めて高くなります。「ハイリスク・ハイリターン」な戦術と言われる所以です。パスが一本ずれたり、トラップが大きくなったりするだけで致命傷になります。
また、ディフェンスラインを高く設定するため、相手のロングボール一発で裏を取られるリスクも常に抱えています。このスリルと隣り合わせの緊張感が、デゼルビのサッカーをよりドラマチックなものにしているとも言えます。
現代サッカーに与えた影響と今後の進化

ロベルト・デ・ゼルビの登場は、現代サッカーの戦術史においても重要な出来事として語られています。彼の影響は今や世界中に広がりつつあります。
グアルディオラも認めた革新性
現役最強の監督と称されるマンチェスター・シティのペップ・グアルディオラ監督は、デゼルビ監督を「過去20年間で最も影響力のある監督の一人」と最大級の賛辞を送っています。また、「ブライトンのようなビルドアップをするチームは世界に一つしかない」とも語りました。
サッカー界の頂点に立つ人物がその革新性を認めたことで、デゼルビ戦術への注目度は一気に高まりました。多くの指導者が彼の戦術を研究し、模倣しようと試みていますが、その完成度においてデゼルビの右に出る者はいまだ現れていません。
他のクラブや監督への戦術的波及
現在、ヨーロッパの多くのクラブや、さらにはJリーグのチームでも、デゼルビ戦術のエッセンスを取り入れる動きが見られます。特に「相手を引き込んでから攻める」という疑似カウンターの概念や、足裏を使ったボールコントロールは、育成年代の指導現場にも広まっています。
以前は「自陣ゴール前で遊ぶな、早く蹴り出せ」と教えられていた場面でも、「相手を見て判断しろ、繋げるなら繋げ」という指導へと変化しつつあります。デゼルビの戦術は、サッカーにおける「リスク」の捉え方そのものを変えてしまったのです。
リーグ・アン(マルセイユ)での新たな挑戦
現在、デゼルビ監督はフランスのマルセイユで新たな挑戦を続けています。イングランドとは異なるフィジカル重視のリーグにおいて、彼の戦術はさらなる進化を遂げています。基本のスタイルは維持しつつも、相手によっては3バック気味に変形したり、強豪チーム相手には守備ブロックを低く構える柔軟性も見せ始めています。
マルセイユという熱狂的なサポーターを持つクラブで結果を残すことができれば、デゼルビの名声は不動のものとなるでしょう。彼の戦術は完成されたものではなく、今もなお進化の途中にあるのです。
デゼルビ戦術のまとめ:リスクを恐れず美しく勝つスタイル
デゼルビ戦術は、単にパスを繋ぐだけのサッカーではありません。それは、極限までリスクを冒して相手をおびき寄せ、その逆を突く知的でスリリングな心理戦です。後方での「静」から、縦パス一本で始まる「動」への爆発的な転換。これが世界中のファンを熱狂させる「疑似カウンター」の正体です。
ゴールキーパーやセンターバックが相手の鼻先でボールを止め、プレスをあざ笑うかのようにかわしていく様は、見ていて痛快そのものです。もちろん、その背後には失点のリスクが常に潜んでいますが、その恐怖に打ち勝つ勇気と技術があるからこそ、勝利した時のカタルシスは計り知れません。デゼルビ監督が描くフットボールは、私たちに「ボールを持つことの本当の意味」を教えてくれています。
今後、彼が率いるチームの試合を見る際は、ぜひボールを持っていない選手の動きや、相手との駆け引きに注目してみてください。きっと、今までとは違ったサッカーの景色が見えてくるはずです。


